右ハンドル市場へ BYDの軽EV「Racco」が描く世界戦略

【李達=東京】

2026年10月4日、神奈川県平塚市。BYDの劉学亮副総裁は、同社の日本市場における累計1万台目となる「SEALION 6」の鍵を車の購入者に手渡した。2023年1月の日本乗用車市場参入から1万台に届くまで4年近くかかった。「次の1万台は、必ずもっと速いペースで達成する」劉氏は式典でそう語った。

その自信を支えているのが、軽規格の電気自動車だ。発売から2カ月で、受注台数は2,000台に達する。さらにBYDはRaccoを日本国外にも展開し、中国・マカオとスリランカに投入した後、右ハンドル市場を中心に販売地域を広げる方針を示した。

日本はもはや単なる販売市場ではない。BYDの右ハンドル車を開発・検証し、海外へ送り出す拠点になりつつある。

日本で磨く 厳しい市場を製品開発の試験場に

Raccoは、日本の軽自動車規格に合わせてゼロから開発された専用車であり、既存モデルを小さくした車ではない。

日本は世界でも参入が難しい自動車市場の一つだ。軽自動車は国内新車販売の約3分の1を占め、スズキ、ホンダ、日産などが長年強固な地位を築いてきた。中国ブランドが足場を固めるのは容易ではない。

それでも、Raccoの受注データは市場関係者の予想を上回った。受注は上位グレードに集中している。全3グレードのうち、最上位の300 Premium(249万7,000円、WLTCモード航続距離320キロ)が85%を占める。安価なモデルで台数を稼ぐという従来の軽自動車市場の構図とは異なり、Raccoは価格の安さより航続距離や装備を重視する家庭に選ばれている。

購入者の82%は、これまでBYD車を所有したことのない新規顧客だ。従来は日本メーカーのガソリン軽自動車を使っていた家庭も、中国ブランドのEVを選び始めた。Raccoは、BYDが参入後3年余りで十分に入り込めなかった一般家庭の購入候補に、同社の車を押し上げつつある。

強みは製品性能にある。Racco 300のWLTCモード航続距離は320キロで、日本の軽EVとして初めて300キロを超えた。国内で最も売れている軽EV、日産「サクラ」は180キロだ。電池容量はRaccoが35.84kWh、サクラが約20kWhで、Raccoが約80%上回る。急速充電の最大出力も50kWで、サクラの30kWより67%高い。

価格設定は日本の競合車と微妙にずれている。Raccoのエントリーモデルは補助金適用前で214万5,000円と、日産サクラの244万8,600円を下回る。一方、国のCEV補助金はサクラが約55万円なのに対し、輸入車のRaccoは約35万円にとどまる。補助金を差し引くと実質価格の差は大幅に縮まり、Raccoの割安感は最終価格よりも装備や性能に表れる。

機能も日本の家庭での使い方を意識した。両側電動スライドドアを標準装備し、狭い駐車場でも乗り降りしやすい。V2Lの外部給電とV2Hの家庭向け給電は、地震の多い日本で実用的な利点になる。高齢者にも操作しやすいよう、物理ボタンも多く残した。中国仕様車のハンドル位置を変えただけではなく、日本の生活環境を調べた上で設計したことがうかがえる。

ただし、納車には課題がある。地域をまたぐ駆動用電池の供給が逼迫し、長距離仕様の300シリーズでは約1,300台が納車待ちとなっている。エントリー仕様の200シリーズは即納できるものの、供給制約が発売直後の好調な受注に水を差している。

マカオとスリランカで小規模に検証

日本で製品を検証したRaccoは、最初の海外市場に中国・マカオとスリランカを選んだ。いずれも規模は大きくない。

狙いは、比較的リスクを抑えて適応力を試すことにある。両市場は右ハンドル車が中心で、EV普及はまだ初期段階にあり、英国やオーストラリアほど競争が激しくない。マカオでは予約を開始し、スリランカでは10月9日に発売した。右ハンドル車と左ハンドル車が混在するマカオ、充電インフラが十分でないスリランカで受け入れられれば、より成熟した右ハンドル市場へ進出する際の実績になる。

もう一つの狙いは、右ハンドル市場向けの商品構成を補うことだ。香港やオーストラリアではSEALION 7 EVやATTO 3などの中型SUVと乗用車が主力で、香港での価格は20万~30万香港ドルに集中する。Raccoは手頃な軽EVで、日本では補助金適用後のエントリー価格が200万円を下回る。香港ドル換算で約10万香港ドルだ。投入地域が広がれば、近距離移動向けの小型EVという空白を埋め、軽自動車から中大型SUVまでをそろえられる。

日本で実証し、右ハンドル市場へ展開

Raccoの海外戦略は、日本で実証した仕組みを他の右ハンドル市場へ展開する試みといえる。

次の重要市場は香港だ。BYDはすでに右ハンドル車の販売網を築いている。2025年には9,751台を販売し、ブランド別で首位、市場シェアは22.5%となった。2026年上半期はBYDとDENZAの自家用車販売が計5,963台、市場シェアは19%で、香港で新規登録された自家用車の約5台に1台を両ブランドが占めた。香港の右ハンドル車に関する法規・認証制度は、英国、オーストラリア、ニュージーランドなどと共通点が多い。香港で法規適合と消費者の反応を確認できれば、他市場へ進む際のハードルは下がる。

中期的には英国とオーストラリアも候補となる。Nikkei Asiaによると、BYDは英国向けにパワートレインの調整を含めて投入を検討し、オーストラリア市場も評価している。ただし、英国にはホンダ「N-ONE」などの競合車があり、オーストラリアでは車両認証(ホモロゲーション)の費用が高く、採算に合わない可能性がある。

インドネシアなど東南アジア市場も検討対象だ。BYDのインドネシア法人は、Raccoの投入について「可能性は非常に高い」とする一方、同国で軽自動車が正式販売された例がないため、さらなる調査が必要だとしている。実現すれば、同国初の軽EVとなる。

中国本土には投入しない。中国の小型EV市場では長安汽車のLuminや上汽通用五菱の宏光MINI EVなどが低価格で激しく競争しているためだ。中国を対象外とした判断は、Raccoが右ハンドル市場に特化した製品であり、世界中へ一斉投入するのではなく、条件の合う市場へ展開する戦略であることを示す。

右ハンドル市場進出に伴うリスク

世界展開には複数の課題がある。第一は日本メーカーの販売網だ。トヨタ、ホンダ、スズキは右ハンドル市場で数十年にわたり販売店とアフターサービス網を築いてきた。BYDは日本で約71~78カ所の販売拠点を設け、年内に100拠点へ増やす計画だが、英国やオーストラリアで同様の体制を整えるには、日本以上の投資と時間を要する。

第二は電池供給だ。日本では供給不足により1,300台が納車待ちとなっている。複数市場へ同時に投入し、300シリーズの上位仕様に需要が集中すれば、供給網への負荷はさらに大きくなる。

消費者の受け止め方も市場ごとに異なる。軽自動車は日本独自のカテゴリーとして定着しているが、英国やオーストラリアで小型EVがどこまで支持されるかは未知数だ。Raccoが軽自動車文化のない市場でも同様に評価されるとは限らない。

地政学と保護主義もリスクになる。オーストラリアなど一部の右ハンドル市場では中国製EVへの規制が強まっており、非関税障壁が新たな壁となる可能性がある。

短評 日本は終着点ではなく、足掛かり

世界の約3分の1の国・地域で右ハンドル車が使われ、その人口は約20億人に上る。

この市場は長く日本のガソリン車が優位を保ってきた。しかし、EVへの移行の遅れが中国ブランドに参入余地を生んでいる。2023年にゼロから日本市場へ参入し、2026年にはRaccoが発売2カ月で受注1,000台を超え、BYDの累計納車台数も1万台に達した。BYDにとって日本での4年間は、海外で最も厳しい道の一つだった。

その厳しさが、新たな市場への扉を開いた。日本ではRaccoの商品力、現地適応力、ブランド認知を検証できる。マカオとスリランカでは比較的低いリスクで右ハンドル仕様を試せる。香港の販売網と法制度は、さらに広い右ハンドル市場へ進む足掛かりになる。

BYDは「次の1万台は必ずもっと速く達成する」と表明した。日本で確立した仕組みを他市場でも再現できれば、この目標は日本だけのものではなくなる。Raccoの展開は、検証、横展開、市場網の拡大を段階的に進める戦略だ。

最も厳しい道が、最も広い市場へ通じることがある。BYDが日本で検証したのは一台の車だけではない。厳しい市場で製品を磨き、完成した仕組みを他の右ハンドル市場へ広げる道筋そのものだ。この戦略が軌道に乗れば、「次の1万台」は日本以外でも現実味を帯びる。

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