「守る」から「託す」へ

——上野の老舗「酒悦」が紡ぐ味と継承の物語

発端:時が醸した江戸の味

取材・文/Riky
写真/柳田

上野公園の傍らに佇む、昭和の気概

上野恩賜公園の不忍池側から抜け、中央通りを数歩進むと、ビルの壁面を大きく覆う看板が目に飛び込んでくる。昭和の威風を今に伝える佇まい、ここが「酒悦(しゅえつ)」の上野本店だ。

引き戸を開けると、棚一面に並んだ瓶や缶が迎えてくれる。大根、茄子、瓜、蓮根などの野菜を刻み、醤油やみりんで漬け込んだ「福神漬」。飴色に透き通るその漬物は、甘辛く、口に運べば心地よい歯ごたえが広がる。日本の食卓では、カレーの皿の傍らにそっと添えられる名脇役として定着している。

もう一つの看板が「佃煮」だ。海苔や昆布、小魚、貝類などを醤油と砂糖でじっくりと煮詰めた、滋味深いご飯のお供。箸の先にほんの少し取るだけで、白いご飯が何杯も進む。三百数十年という悠久の歴史は、決して遠い昔の話ではない。今夜、客が家へ持ち帰るこのひと瓶の中に、息づいているのだ。

「酒悦の漬物は、素材そのものの風味を生かすことを第一にしています」と上野本店の店長は語る。試食にいただいたセロリの漬物は、特有のえぐみがすっきりと抜け、清らかな甘みと小気味よいシャキシャキとした食感だけが際立っていた。

山田屋の創業と「酒悦」の誕生

この一切れの漬物の背景には、気の遠くなるような歳月の積み重ねがある。始まりは延宝3年(1675年)。初代・野田清右衛門が伊勢(現在の三重県)から江戸へと渡り、本郷元町に開いた海産物商「山田屋」に遡る。

当時、伊勢から江戸までは徒歩でおよそ半月。運ばれてくる海産物は、自ずと日持ちのする塩蔵品が中心となった。後に酒悦が漬物や佃煮を専業としていく原点は、すでにここにあったと言える。

やがて店を上野池之端へと移すと、評判の漬物や佃煮は東叡山輪王寺の御門跡(皇族出身の高僧)の耳目にも留まることとなる。「酒が悦ぶほどに旨い」——その感嘆の言葉から、「酒悦」という雅やかな屋号が下賜された。

「七」を守り抜く:福神漬、十年越しの試行錯誤

福神漬が世に生まれたのは明治時代のこと。革新の気風に富んでいた十五代・清右衛門が、野菜を醤油で漬け込む新たな試みに挑んだ。当時の日本で漬物といえば塩漬け、糠漬け、麹漬けが主流であり、醤油漬けなど前例がなかった。手本のない手探りの試行錯誤は、実に10年におよんだという。

「七福神」にちなんで7種類の野菜を使ったのが始まりであり、酒悦は今も余計な手を加えず、野菜本来の持ち味を引き出す製法を守り続けている。なかでも素朴な大根こそが味の要だ。天日干しで旨味を凝縮させ、醤油をしっかりと吸わせることで、香ばしさの中に奥深い甘みが立ち現れる。

しかし、「七」の伝統を守ることは、変化を拒むことではない。当初は白米のおかずや酒の肴として大ぶりに刻まれていたが、明治35年頃、カレーライスの付け合わせとして供されるようになると、食べ方の変化に合わせて姿を変えていった。スプーンですくいやすいよう細かく刻まれ、スパイシーなカレーの香りに負けないよう味付けにも工夫が重ねられた。そして2026年7月7日の「酒悦 福神漬の日」には、明治初期の原点に立ち返り、大ぶりに刻んで白米との相性を極めた「初代福神漬」が復刻された。

転換:ある店長の葛藤と拓かれた境地

重圧を背負った店長就任

江戸から続く暖簾を今に繋いできたのは、単に「老舗」という看板の力だけではない。これからの歩みについて尋ねると、店長は悠久の歴史ではなく、自らが店を任された当時の胸中を静かに振り返った。

31歳で上野本店の店長に就き、現在55歳。就任当初、彼を苛んでいたのは「自分の代で暖簾に傷をつけてはならない」という強烈な重圧だった。商品の並べ方から、出迎えの挨拶、客との言葉交わしに至るまで、すべてに目を光らせた。三百有余年の歴史を預かる以上、いかなる綻びも許されない。従業員に厳しく接し、自らを厳格に律するあまり、心は張り詰める一方だった。その緊張感はいつしか、下ろすことのできない重荷となっていった。

「守る」から「託す」へ

その苦悩を店内で漏らすことはなかった。転機となったのは、近所にある天ぷらの老舗の先代と席を共にしたときのことだった。同じく暖簾を守る先輩に、思わず胸の内を打ち明けた。すると、先輩は静かに言った。

「守ることばかり考えるな。次の代にどう託すかを考えなさい」

「守る」とは目の前のものを囲い込むことだが、「託す」とは次の担い手に渡った先、どこまで歩んでいけるかを見据えることだ。守ることだけに囚われれば、老舗は触れることさえ恐ろしい不可侵の偶像になってしまう。だが「託す」と考えれば、今を生きる自分たちにもやるべき道が見えてくる。自らの経験を遺し、新たな味を生み出し、次の世代に手渡すときに「過去」だけでなく「未来へ進む糧」を持たせてやること。

その一言で、肩の荷がすっと軽くなった。受け継いだ責任とは、ただ現状を維持することではない。「何を残し、何をお客様の暮らしに合わせて変えていくべきか」を見極めることこそが、己の役目だと気づいたのだ。

客が教えてくれた新しい味わい方

酒悦では一人ひとりの客との対話を大切にしてきた。打ち解けた会話の中から、店側の想像を超える食べ方が寄せられることもある。外国人の客が甘い煮豆を焼き菓子感覚でおやつに楽しんだり、米の香りと甘みをもつ甘酒を調味料として料理に忍ばせたり。福神漬の漬け汁をバニラアイスにかけて食べるという提案もあった。店長自ら試してみると、醤油の塩気とアイスの甘みが思いがけず見事に調和した。店が味を届け、客が新たな楽しみ方を持ち帰る。老舗の味は、そうした温かな往復の中で、軽やかに新たな表情を広げていく。

継承:味覚の記憶を次の世代へ

老舗としての矜持と一線

数百年続く看板であっても、直面する日々の現実はシビアだ。原材料費や物流費、人件費の高騰が続くなか、世間では価格を据え置くために内容量を減らしたり、安価な原料へ切り替えたりする例も少なくない。

しかし、何を変えて、何を変えてはならないのか。酒悦はその一線を明確に引いている。価格は時代のコストに合わせて見直すことがあっても、素材の質、食の安全、そして味の核だけは決して譲らない。「パッケージに『酒悦』とあっても、中身が変わってしまっては意味がない。お客様の信頼を築くには長い歳月がかかりますが、失うのは一瞬ですから」と店長は語る。

試食から始まるもてなしの心

店を訪れるのは、長年通い詰める常連から、若い世代、スーツケースを引く外国人観光客まで幅広い。多様な客を前に、店員たちが大切にしているのは「まず一口、味わってもらうこと」だ。

棚の前で興味深そうに小瓶を眺める若者がいれば、さりげなく試食を勧める。美味しそうに目を細めるのを見届けてから、それがどんな品で、どんな風に食べられるのかを語りかける。その場で買ってもらわなくても構わない。この一口が「味覚の記憶」として心に刻まれれば、5年後、10年後にふと思い出してくれるかもしれないからだ。日々のInstagramでも、単なるセール情報にとどまらず、商品の背景や食卓を彩る食べ方の提案を丁寧に発信している。

国内の客にとって、福神漬や佃煮は日常の惣菜であると同時に、心を通わせる手土産でもあり、食が細くなった年配の人が白米を美味しく食べるための心強い味方でもある。

一方、外国人観光客に対しても、まずは「味わう」ことから始める。甘酒や出汁の繊細な旨味は、翻訳アプリを介しても言葉だけでは伝わりにくい。あれこれ説明を重ねるより、小さな盃一杯の甘酒やひと匙の出汁を差し出す。舌で納得してもらった上でその由来や使い方を伝えれば、言葉の壁を越えてすんなりと心に届く。

六つの時代を越え、味を未来へ

延宝3年(1675年)の山田屋から今日まで、酒悦は江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と、六つの時代を駆け抜けてきた。店の場所は変わり、商いの形も変わり、福神漬の刻み方や食べ方も時代とともに移ろい配慮されてきた。

どの世代が受け継いできたものも、単なる屋号や看板商品だけではない。先代たちが長い年月をかけて客と紡いできた、信頼と経験の集積である。それを受け止め、自らの時代の息吹を注ぎ込み、また次の世代へと手渡していく。

託すとはきっと、目の前の一口を誠心誠意つくり上げ、誰かの心に刻み込むことなのだろう。次の世代が暖簾を掲げるときにも、確かな味がそこにあり、それを愛おしむ人がそこにいるように。

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